死にたい十代、殺したい二十代

あまり曲自体は思い出せないのだけれど、大好きな梨本ういさんの曲なので、タイトルだけは印象的で覚えている。

 

 

 

2020年5月5日、ゴールデンウィークの真っ只中、隣のクラスの生徒が自死した。

 

 

 

自分のクラスでなくて良かった、担任の先生が可哀想だ、どう声をかければいいのかわからない、前の部活の顧問のせいだ、現代文を受け持っていたのに、生徒を生かす現代文の授業ができなくてなにが教師だ、たかだか17歳の高校生が死を選ぶその理由は、

 

など、ぐるぐる頭を巡った。衝撃的だった。未だに現実感がないし、思考も纏まっていない。し、纏まることはないテーマだと思う。

だから、文を書いている。

 

 

 

自分の高校時代を回想して。

 

確かに、死にたい十代ではあった。

 

父親の死、母親との関係性、当時の恋人との関係、友人との関係、(主に母親と恋人・友人の板挟みが強かったと思う)に、それなりに悩んではいたし、当時の恋人に心中を願い出たこともあった。

そこで断ってくれていたから、今の自分がいるという点では、かなり感謝している(それによってか知らないが当時の恋人が今精神を病んでいることは申し訳ないと思っているけれど、それはまた別の話)。

実際三郷駅のベンチで、宮前橋の上で、ボロボロ泣きながら過ごしていた記憶はあるし、栄駅と守山自衛隊前駅を往復しながら、ガラケーの未送信フォルダに拙い文章を溜め込んでいた記憶もある。

しかし、具体的にどんな感情だったかは思い出せない。

 

当時はメンヘラという言葉すらない(あったかも知れないけど、SNSも出始めだったし、携帯もフィルタリングだったからいろいろ疎くて知らなかっただろう)し、リスカメンクリもODも何も知らないからできなくて、ただ読んでいた太宰治の知識だけで、心中への憧れは強かった、と思う。

そういうファッション的なものももちろんあったとは思うが、わたしにとって、辛い気持ちは本物だった。

数学Bは教科担も嫌いだし(それを嫌う級友の雰囲気ももっと嫌いだった)、なんとなく辛いしで毎日抜けては保健室に通っていた。

何がきっかけかは忘れたけど、いつの間にか安心できる場所、辛さを出せる場所になっていた。

わたしが来室するたび箱ティッシュを持って、カーテンの中のベッドに案内してくれた養護教諭の先生には感謝してもしきれない。

 

教師全般が、かなり好きだった。

あの時は何を原動力にそんなに勉強するのか、というくらい勉強していたけれど、好きな先生たちに認められたかったから、というのはあると、今になって思う。

幸い地頭が良かったみたいで、他の生徒より少ない勉強量で(でも、かなり勉強していたと思う)学校のトップにのぼりつめることができた。

好きな音楽を聴きながら勉強することは、もやもやした思考とか親のこととかいろいろからわたしを引き離してくれて楽しかった。恋人と勉強するのも楽しかった。友達と競って勉強するのも。

先生たちはわたしを褒めてくれていたし、顔とか今より相当不細工だったけど、自信を持てていたような気がする。

 

大学前半でも、グラグラしている時期は多かったけれど(恋人に振られて死ぬとか言ったような気がする)まがいなりにもその時々の恋人や、友達、好きな教授、好きな音楽や文学に支えられてきた。

そうやって、わたしは死にたい十代をなんとか生き延びてきた。

 

だから、結局わからない。

 

本当に死ぬことができるその決断力、行動力、と言うのだろうか、がわたしにはわからない。

 

大学四年の秋、受かると思っていた教採に落ちて、高い高いプライドがズタズタになり、その晩ウイスキーマイスリーを飲んで首を括った。と言っても、ドライヤーのコードを玄関のドアノブに巻いただけで、当然首の重みに耐えられず、翌朝玄関で目が覚めた。

 

酩酊していたとはいえ、死ぬのは案外難しい。かなり強い意志と、綿密な準備がいる。

 

だから余計に、17歳が死を選ぶ理由が気になってしまう。

 

きっと一つではないだろうし、いろいろな要因が複雑に絡みあっているのだと思う。

わたしだって、あんまり感情を生で思い出すことはできないけれど、あの時の辛さはきっと本物だった。

状況や環境次第ではポッと死んでいたかもしれない。

そのような偶然が積み重なって、たまたま生きているのかもしれないし、また別の偶然が積み重なって、自死があったのかもしれない(好きになれない志賀直哉みたいになってしまった)。

 

ただ言えるのは、十代のメランコリーは永遠ではない。

 

「ねえ、一〇代の輝きだけが本物だなんて絶対にありえないよ。

ドントトラストオーバーサーティーと叫ぶパンク少年、一〇代特有の感情とかのほうが、そんなもん信じるなよ。時が経てば腐るような思想ばかりが衝動なんて恥ずかしくないのか。感受性とは一生向き合おうや。」

 

大森靖子『超歌手』から。

 

「くしくも若いときというのは持っている言語が少ないため、否応なくわかりやすいことを言うことができる。

そのわかりやすく尖った表現は、「一〇代特有の感情の機微」として評価されるだろう。

その「エモみ」と言われているようなもの、それはやがて失われていくもののようにされているが、そんなことはまったくない。

三〇代にも三〇代特有の感情の機微があたりまえにあるし、四〇代には四〇代のブルースがあり、それぞれの現実と向き合い、問題に直面し、解決しつづけている。

やはり年齢を重ねていくにつれ、問題は難解になっていく。問題が難解になっていくので、答えも難解になっていく。語彙が増えるし、レベルが上がっていく。」

 

これが、死にたい十代と殺したい二十代のシンギュラリティ(さいきん恋人に教わったので、使いたかった)だろう。

こうやって、わたしは日々語彙をつけていくし、本を読んで、YouTube見て、Twitter見て、いろんな人の意見、言説を吸収していく。

ここだけは絶対変わらないから自分でもいいブログタイトルだなと思うけれど、生きることは自分の見聞をつぎはぎすることだ。

自分の身に付けた語彙で思考し、体現することだ。

語彙や言説が増えれば増えるほど、問題は難しくなっていく。「好きか嫌いか」も答えられなくなっていく。グレーが存在することを知る。

 

死にたい十代のフェーズから、殺したい二十代のフェーズになったのは、こういうことかなと思う。

 

とにかく自己に意識が向かう、自分が死ぬしかないと思う十代から、色々知ったからこそ、自分が他者との関係性の上にあることもわかり、他者を社会を世界を殺したいと思う二十代。

殺したいと思うことはおそらく良いことではないので、きっとこれから、三十代になればまた新しいフェーズに突入できるんだろう。

 

たぶんわたしは、そのために生きている。

わたしは新しいフェーズに入るために語彙や言説を身につけなくてはいけないし、十代の生徒に教えなくては、届けなくてはいけない。

 

十代という夜を乗りこなす方法を教えなくてはいけない。

それが教師として、人間として、年長者としての使命だと思う。

 

ただ、十代の夜は深い。海みたいに深い。

彼らにとって、朝を迎えるのは楽勝ではない。

そんな溺れている彼らに、手を差し伸ばすのも、年長者としての使命だ。

ときにともに溺れたとしても。

 

 

 

まだ、どうして自ら死を選んではいけないのかはわからない。いや、わかるわからないではなくて、どうしていけないのか説明ができない。

それはまだ、わたしにそれを表現する語彙が身に付いていないからだろう。

ただ、死んではいけない。

人間は、生きることが、全部である。

生きてみせ、新しい世界を見出しつづけなくてはならぬ。

 

 

 

「生きてるかぎりは真摯にね。捨てるような命を私もきみもやってきたわけではないだろうから。」